公認会計士の受験対策の専門学校があります。そこでの簿記の授業で、元試験委員という大学教授の「諸君、簿記・会計を志した者なら一度は銀行の総勘定元帳を見てみなさい。熟練した会計担当者が作るそれは、美しくまるで芸術作品のようです。」という言葉がずっと記憶に残っています。そんなものかなあという気持ちと、自分には無理だなあと思ったものでした。
以上のようなことを、今振り返ってみると、次のようにまとめることができると思います。簿記が面白くないということの中身には二つのことが含まれています。一つは、技術としての複式簿記を理解しようとすると、その内容としての会計の考え方を理解する必要があるということです。
会計は現実の経済活動をどう認識・測定し、その結果をどう表示するかということを含んでいます。又、現実の経済活動の中に含まれるしくみ。たとえば受取手形、小切手、株式、社債、銀行借入などの役割とその背景をなす金融のしくみが会計理論の前提として存在します。さまざまな経済活動の分析である「仕訳」を理解するには、経済活動の実態と会計理論を理解する必要があるのです。
その理解抜きに簿記の勉強をしようとすると、簿記が難しく面白くないことになります。ただし、この側面は、勉強を続けていくうちに解消されてくるものです。会計の理解が進み、経済活動のしくみに対する理解が深まれば仕訳は簡単になってきます。
ところが簿記のおもしろくないという中身の、もう一つの側面である「自由がない」ということはそういうわけにはいきません。「自由がない」ということは抽象度の高さ、技術力の高さという簿記の優れた側面と結びついているからです。年商数百万円の個人商店から、何兆円という多国籍企業まで、技術としての簿記という観点から見れば、全く同じことが行われています。
仕訳が同じであれば、誰がやっても同じ結果が出るのです。手に職をつけるために簿記を勉強するという考え方も、簿記という技術の適用範囲の広さを示しています。誰がやっても同じ結果が出るとすれば、簿記における技術の高さの程度をはかる基準はいかに早く、いかに美しく、いかに正確にできるかということになります。
先に述べた大学教授の言葉も、技術としての簿記のいきつく先は、「芸術作品のような総勘定元帳」にならざるを得ないことを示しています。それはそれとして意味のあることだとしても、その芸術作品を作り上げる過程はやはり、単調で面白くない作業です。
コンピュータにおける簿記会計のシステムが普及したことも、このことと無縁ではありません。コンピュータが万能であるというよりも、誰がやっても同じ結果が出るという簿記の技術的抽象度の高さが、コンピュータに適応しやすかったのだと思われます。
そして、コンピュータを利用することによって、単調で自由がない転記集計作業から人間が開放されることになります。ただし、そこでは、インプットミスという新しい問題が発生し、それを防ぐために新たな工夫が大切になりますが、そのことは後の章で検討することにします。
公益法人会計基準も、複式簿記の基準を前提としています。資本の増減を扱う企業とは違って、公益法人では、正味財産の増減と資金の増減の両方を扱うことを要求されます。一取引二仕訳の本質はそこにあるのですが、まず複式簿記の技術的本質について検討し、その後その内容としての公益法人の会計を考えていくことにします。
簿記会計がコンピュータ化されても、そのしくみを理解しておくことは、コンピュータから出力された結果を判断する上で、重要なことだと思われるからです。