ところで、行政改革の論議の中で、公益法人に関する論議が、同じ位置づけで行われるのは何故でしょうか。本来、公益法人とは民法に規定された法人格であり、行政の指導監督を受けるにしても、行政とは別個の存在のはずです。しかし、今回の指導連絡協議会の、指導監督基準の改正も、行政改革の流れの中で論議され、報道されています。私は、それは、多くの公益法人が、行政の子会社という性格を、持っていたからだと思います。
子会社というのは極端な表現のようですが、意味は次の通りです。
公益法人に限らず、色々な組織について考えるには、人、物、金について、どうなっているかを考えるのが原則です。多くの公益法人の場合、理事や管理職のかなりの部分についての人事権が、実質的には、行政にあります。人事異動はお役所と一括して行われます。また、プロパー職員の採用も、縁故採用の比率が高いのが実態です。これは親会社が、実質的に人事権を握っている子会社という存在に、よく似ています。
多くの公益法人で設立時の基本財産の寄付者は行政のみです。公益法人の基本財産は、寄付された時点で公益法人のものであり、出資者の権利などありません。しかし、出えん金という言葉があるように、行政にとっては全額出資だという意識があります。また、その収入の大半が、行政からの受託事業収入、助成金収入、補助金収入であったり、検査料収入や認定料収入の基盤となっている業務が行政からの委託を受けたものであることも、子会社の財政構造、収益構造と似ているからです。つまり、独立の法人であるはずの公益法人が、実質的には、行政の一部と見られているわけです。従って、現在の行政が抱える問題の多くが、公益法人でも同じように存在するとみなされているのです。
指導監督基準の今回の改正は、人の面で大きな変化をもたらす可能性を秘めています。役員のうち、所管官庁出身者の占める割合が、三分の一以下に制限されたことです。官庁出身者が公益法人に入る事は、天下りという言い方で非難されますが、悪い事ばかりではありません。
公益という観点で、物事を見たり、考えたりする場合、行政出身者の方が適している、あるいは慣れていることが多いからです。民間企業の出身者はどうしても、採算や効率性から物事を見る習慣がありますから、公益活動を無駄や贅沢と見てしまう危険性があるからです。
しかし、最近では民間の企業そのものが、利益のためならなりふりかまわず、安かろう悪かろうの商品でも販売するといったことが、出来なくなってきている事も事実です。不良品を平気で売ったり、手抜き工事を平気でするような企業は淘汰され、より豊かで人間的な商品を開発し販売する企業が生き残るという状況も出てきています。
民間企業出身者に学識経験者も含めて、理事構成がうまく機能すれば、新しい公益法人の姿が出来上がるかもしれません。出来れば管理職職員についても、同じ比率が適用され、縁故ではなく一般募集による採用が増えれば、プロパー職員の労働意欲もふくめて、素晴らしい成果が上がるような気がするのですが。