コラム


第1回 行政改革と公益法人


1.山の稜線を飛び去って行く一羽の鶴

(1) 「鶴の恩返し」

「鶴の恩返し」という昔話があります。小学校か中学校の時代に、演劇や読み物で誰もが必ず出会うものです。その当時は、おツウと与ひょうが何故別れるのかが理解できず、与ひょうがおツウの機織り姿を覗き見る場面で、たったそれだけですべてを失う事がわかっている人間が、なんでそんなことをするのかという事に、もどかしく切ない思いをしたものです。


愛し合っているにもかかわらず、覗き見られただけで去っていくおツウの気持ちが理解できず、与ひょうが飛びさってゆく鶴を見上げる切なさに、むしろ感情移入をしていたような気がします。たった一度の過ちで全てを失ってしまうようなルールが、この世の中に存在して、自分の力ではどうしようもない事もあるのだということは、若い時代、すぐには受け入れられないものです。


身分がばれたら追い出される、あるいは自ら身を引く「そんなのおかしいよ」と思う方が自然だと、今でも思います。同時に、青春時代の中で幸せな時期とは、自分中心で鼻持ちならないものなのかもしれないという思いもあります。


(2) 戯曲「夕鶴」を見て

この民話を下敷きにした、木下順二の「夕鶴」という戯曲があります。山本安英という、千回以上もおツウを演じた女優のテレビでの追悼番組で、彼女の「夕鶴」の録画を見たことがあります。1969年に録画されたもので、まだカラーではなく、白黒の不鮮明な画面のものでしたが、そこにあった「夕鶴」は「鶴の恩返し」とは、全く違ったものでした。


彼女が自分の身を削って織り上げる反物「千羽織」が、お金になるという臭いを嗅ぎ付けて集まってくる取り巻き(意識的にせよ無意識的にせよ、いつの世にも必ず居る取り巻き連中)のペースに巻き込まれていく与ひょうを見て、さびしげにつぶやくおツウ。


「与ひょう。わたしの大事な与ひょう。あんたはどうしたの。あんたはだんだん変わっていく。なんだかわからないけれど別な世界の人になってしまう。」


取り巻きにそそのかされて、もう織らないと約束した「千羽織」を、もう一度織ってくれと頼む与ひょう。「今度は前の二枚分も三枚分もの金で売ってやるちゅうだ。何百両だでよ。」という与ひょうの言葉が理解できず「判らない。あんたの言う事が何にも判らない。さっきの人たちとおんなじだわ。口の動くのが見えるだけ。声が聞こえるだけ。だけど何を言っているんだか、、、。ああ、あんたは、、。あんたが、とうとうあんたが、あの人たちの言葉を、わたしに判らない世界の言葉を話し出した。どうしよう、どうしよう、どうしよう」と途方にくれるおツウ。


矢に射られて苦しんでいる鶴を、かわいそうだという思いだけで、助けてやる与ひょうの心優しさが、商品経済の中で破壊され、目の前のおツウという存在が、与ひょうには見えなくなってしまっている。矢でおツウを射た人たちとおんなじになってしまっている。


すでに二人の関係は変質してしまっており、これが本当に最後だと約束をして、鶴の姿になって「千羽織」を織るおツウを、与ひょうが覗き見てしまうという出来事は、別れのきっかけにすぎなかったのでした。


(3) 大切なもの

おツウのように、人は愛する人のためには、平気で自分を犠牲にすることができるものです。男と女の間だけではなく、男と男、女と女の間でも同じです。友情や恋愛なんて一時期の熱病だと馬鹿にする人がいても、その人自身が熱病の経験を必ず持っているものです。


しかし、世の中の利害関係が必ずその間に忍び込み、二人の関係を破壊しようとします。二人を取り巻く環境は絶えず変化し、ちょっと油断すると、誰でも与ひょうになってしまうのです。立場も育ちも違う二人が、誤解し合いながらも、自分より相手にポイントを置き会う事で成り立つ関係は、そのどちらかが、自分にポイントを置きだした瞬間、崩壊してしまうものです。


現状の生活を守るために。追いつめられて自分を守るために。あるいはより良い生活のために。清貧の勧めなどする気はありません。さまざまな商品は人々を豊かにします。お金はほとんど全ての事を可能にします。


むしろ貧困がもたらす悲惨さのほうが人をゆがめ、憎しみや、ねたみや、不誠実の原因になります。おツウに「千羽織」を織る技術がなく、貧乏なままの二人が、ずっと幸せな生活を送ったかどうかは、はなはだ疑問です。お金がなければ何にも出来ないことも事実ですし、誠意は、今の世では、結局、お金でしか表現できない事も事実です。


人はそんな世間の中で、勝者になるために頑張る、敗者にならないよう努力する、そのことはとても大事なことです。しかし、負けないよう努力する事ですら、知らず知らず人を蹴落とし、人を傷付けている事がないかどうか、その中で自分自身が失っているものがないかどうか。「夕鶴」を見るとき、人はおツウの側に立って与ひょうを非難の目で見ますが、自分が与ひょうになっていないかどうかは、なかなか判らないものです。


人はお金より大事なものを感じる事が出来るし、そのために生きる事も出来る。夕鶴のような作品を読んで人が感動するのは、そんな事を思い出させてくれるからだと思います。



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