富国とは、第一に、貧困からの脱却という事です。産業育成、生産力向上、製品の品質向上のための施策です。研究助成や、税法上の優遇措置、官需の政策的配分は直接的な育成策です。
道路網や港湾設備や鉄道網や空港などの基盤整備も、工業生産を高め、消費地や輸出拠点への流通経路の確保としての施策です。いくつもの巨大ダムの建設は、最初は電力確保の為であり、後には霞ケ浦の淡水化と同じように工業用水を確保するためのものでした。
海岸を埋め立てタンクの群れが並ぶ、山は削られ今ではその多くに雑草が生い茂っている。こぞって行われた、工業団地の造成も同じ事です。生産力が高まれば雇用機会を生み出し、それによって所得水準を向上させる事が出来ると考え、その効果をより高めるための施策です。道路にしてもその他のものにしても人々の生活に、生活としての豊かさをもたらすかどうかは、結果にしか過ぎなかったのでした。
公共投資による様々な土木建築工事も、リゾート法によるゴルフ場の建設ラッシュ(破綻)も、特に地方に於いては、雇用の確保と創造のためのものと位置づけられてきました。しかもそれが既得権益になってしまっています。公共事業の削減による地方経済の大打撃は、このような施策が作り出した地方経済の体質です。
富国は、第二には、命を守るという事です。堤防・護岸工事は洪水を防ぐためのものであり、川岸をコンクリートで固めてきました。高潮を防ぐ為の防潮堤は、海岸の風景を変えてきました。それらは、災害から人の命を守る事を最優先として、一直線に行われてきたものです。
砂防ダムも同じです。最近では、洪水で何百人もの死者が出た、台風で何千人もの死者が出たという記事を読む事はありません。それはそれで素晴らしい事ですが、放置された杉の倒木が大雨で流され、ダムを埋め尽くしたというような記事や、土砂崩れの危険地域が住宅地として造成されているという記事を読むと、もっと総合的な防災の方法は、ないんだろうかという気になります。予算にしめる比率がほとんど変化しない事も、これらの工事が防災のためというより、工事業者のための物になっているのではないかという気がします。
お米の生産を奨励し、保護する。それは、敗戦後の人々を、飢えから守る為のものでした。小さな頃、台所につるしてあった米穀通帳は、醤油の臭いとともに懐かしい思い出ですが、米余りの時代に入り、何時の間にか姿を消していました。それから、食糧管理法が改正されるまでに実に多くの時間が費やされ、今年もまた減反が強化されると聞かされると変な気になります。農業がどうあるべきかについて知識もありませんが、何かが狂っているという気がします。
富国という目標からくる判断基準は、先進諸国に追いつき豊かになったとされる日本の中で、意味を失っています。人々はお金(所得)や物質ではない何かを、生産のためでなく生活の豊かさ、人間らしさの何かを、求めているのではないでしょうか。
それがグルメブームになり、海外旅行ブームになり、競馬ブームになっているのも事実ですし、一見、目的を失った人々であると見えるのかもしれません。特に、若者たちがそう見られています。日本人としての自覚や、国家に対する帰属意識が希薄で、自分のためだけの事しか考えない、そういう批判も耳にします。
しかし、阪神大震災の後、ボランティア活動にあれほどの人が参加した事、その時のネットワークが、若狭湾にロシアタンカーからの流出原油が漂着した時に、見事に生かされた事。街に車椅子で出かける人が以前よりずっと多くなった事を、どう考えれば良いのでしょうか。
自分の事しか考えないと批判する人たち自身の時代、身体障害者はどういう風に暮らしていたのでしょうか。NPO法案についての新聞記事で、ボランティア組織を、行政を補完する安上がりな組織と考えている官僚がいると聞いて、暗い気持ちになりました。